寿楽院(荒沢山不動寺)岩松開基の寺、寿楽院
《岩松の祖義純》
寿楽院は岩松開基の寺である。その岩松家の祖について新編武蔵風土記稿に「(畠山重忠)元久二年六月討死せし後、その妻は将軍実朝の叔母なるを以て、改て足利上総介義兼が六男義純に再嫁し、重忠が遺跡を継しめらる。これに於いて義純改て畠山六郎と称す。後また岩松の家をつぎて従五位下遠江守に叙任し、承元四年(1210)卒す。」とある。このように、義純は重忠の遺領をつぐとともに、新田義兼の女との間に、時兼(岩松)・時明(得川)をもうけているので、岩松家は、新田の分家でもあった。
《岩松水軍の働き》
義純は遠江守として遠江国に住し、水軍を以て西海で活動していた。元弘三年(1333)三月二十三日、後醍醐帝の隠岐島脱出の時には、かねて連絡をしていた岩松水軍が出動し、六条忠顕に協力したということがあった。さらに五月ニ十一日の夜半、新田義貞が稲村ケ崎を渡渉する時、北条軍の兵船数十隻が海上から横矢を射って阻止することを察し、船馴れた岩松経家・吉致兄弟に命じ、腰越に待機していた兵船九隻をもってきて、海上を封鎖している北条水軍に突入させた。新田渡渉成功は、この岩松水軍の働きに負うところが大きかった。
《新田一族南朝に殉ず》
それから五年後、新田義貞は北陸の藤島荘燈明寺畷において不慮の戦死を遂げ、その子や孫たちは相次いで南朝に殉じたので、新田氏本拠地の上州太田の領主は義宗(義貞三男)で滅びた。
《寿楽院の開基と宝篋印塔》
さて、宝寿堂の宝篋印塔は、安楽往生の逆修の願いを込めて、延文三年(1358)に造立されたものである。この年は、義貞死後二十一年目にあたり、義貞の子義興が矢口の渡し(東京都大田区矢口。多摩川下流にあった渡し場。 1358年新田義興主従が自刃したといわれる所)で謀殺された年でもある。
この地を領していた岩松氏が、相次ぐ新田一族の凋落に際して、その後生安楽の為に、延文二年(1357)に寿楽院を創建し、境祖地に祖廟を営んだものである。山号をば荒川山とし、厭忌を好んで寿楽と称することに決して信仰礼拝を続けた。宝篋印塔・五輪供養塔、更には青石塔婆の種々が地内全域に亘って出土する。その数夥しく、荒川・只沢の別なく居住者が多く、また仏に対する信仰も盛んであったと窺い知ることができる。
《観応の擾乱》
観応の擾乱は、延文二年の少し前の観応元〜三年(1350〜1352)に起こった足利尊氏・直義両派間の全国的な内乱で、尊氏派の首領高師直一族の滅亡など一進一退し、直義の毒殺によって一応終結する。この間、岩松頼宥は尊氏派、岩松直国は直義派についたが、家を残すための意図的な分担といわれている。
《上杉禅秀の乱と岩松家》
新田の名跡を継いだのは新田一族の岩松満純であった。 この満純は、関東管領上杉禅秀の乱に巻き込まれることになる。上杉禅秀の乱は、志水二十三年〜二十四年(14 1 6〜14 1 7)にかけ足和義嗣・満隆・上杉氏憲(禅秀)らが鎌倉御所足利持氏に叛き、鎌倉を襲った反乱である。岩松満純は、禅秀の娘を妻としているため、禅秀方にくみし有力武将として活躍したが破れ、鎌倉瀧ロで斬首された。
《岩松家純と金山城》
満純の子家純は、岩松家再興に尽力した。文明元年(1469)太田の金山城を築いたのも、家純であった。岩松の家宰横瀬国繁・業繁は、家純をよく補佐したが、享祿ニ年(1529)家純の孫昌純は、横瀬泰繁(業繁の子)父子を退けようとして失敗。このため、金山城での実権は横瀬氏の握るところとなった。
江戸時代以降の寿楽院
《寿楽院の中興と宝篋印塔の建立》
さて徳川の世代となり、世間に平穏が到来したが、吉利支丹宗の潜人が施政者の悩みで、禁教に種々手を焼いた挙句、最後が仏教を対抗の方便に取り揚げ、宗門改め・寺請け等の制度を定め、檀徒と寺との連絡を密ならしめた。故に何処の部落でも寺の整備や建立に戸惑うなかに、荒川村は既に完備せる道場を持ち、宗門帳の作成など他の模範となった。本尊の座には、如来憤怒の像と教え伝える不動明王を安置し、以て寺号もこれに因み不動寺と号した。現在の寿楽院本堂伽藍は、中興寺閣開山空性和尚の宝暦年中(1751〜1764)に再建されたものである。
宝暦五乙亥年(1755)十一月荒川村中を施主とし、村外村内の篤志家の勧化を結集して前庭に宝篋印塔を建立して、過去の諸仏精霊に供養礼拝し、二世安楽を祈念した。
《山号を荒沢山と改称》
寿楽院の山号について只沢部落より「荒川山の称は、荒川・只沢両村等しく昔からの檀徒なるに何処やら別隔てがあるようで思わしくない。故に荒川・只沢両村を表示するに相応しい山号に改称してほしい。」との申し出があり、そこで種々協議を重ねた結果、漸くにして「寿楽院の山号荒川山は停め、荒川村の『荒』に只沢村の『沢』を添へて荒沢山とする。」との解決案に到達し、爾後荒沢山と改称した。
《鐘楼堂の再建》
本堂前方、聖天堂の前庭に茅葺き屋根の鐘楼堂があったが、火災によって焼失し、現瓦葺き鐘楼堂は、大正11年4月3日再建されたものである。梵鐘は、戦時に供出しているが、鋳造年月日も来歴も不詳で相当の時代物と思われていたものだった。現在の梵鐘は昭和54年5月信徒の結集によって復元された。
(高野山真言宗に改宗》
敗戦による昭和26年の宗教法の改革により、従来新義真言宗豊山派所属であったのを高野山真言宗の寺院となった。昭和27年草葺きであった本堂の屋根を檀徒の浄財等により瓦葺きに改築した。
荒川歓喜天
《新堂建設に向けての勧奨帳》
荒川村の鎮守大明神の程近い所に聖天の祠があって、多分鎌倉時代若しくは、それ以前の勧請と推察されるも、歓喜天を祀っている境内の草木を伐採したりすると崇りがあるとの迷信もあり、荒れ放題の無惨な状態であった。法印守心は、文久元年(1861) 8月村名主・世話人とともに新堂建設に向けて勧奨帳を作成し近郷の信徒から寄付勧簿した。
(本殿を建立して遷座、拝殿幣殿も新築》
良譽・真龍・秀敬・尊恕と住職が変わり、元治2年(1865)良譽の時、(宮殿外宇)本殿を建立して遷座し、法印尊恕の時、明治16年3月、遂に拝殿幣殿の新築がなり現聖天堂が落成した。聖天堂の参道入り口には喰違石垣を構築し、更に跨二間の木造大鳥居を建立したが、昭和に入り、腐朽して今はない。
《芭蕉の句碑の建立》
慶応3年8月真龍の時、お堂の西側に芭蕉句碑が建てられた。これは、地域の俳人と江戸の俳人たちの交流の中で建てられたもので、撰文にあたった行庵洒雄は、児玉逸淵の高弟であったところをみると、春秋庵系の資料としてたいへん貴重な物といえる。逸淵は、別号を可布庵、春秋庵などといい、一茶の「おらが春」の序文を書いたことでよく知られている。何よりも寿楽院には、俳諧に使った木の箱(季語を書いた作札を入れるもの)残っており、その箱書きに、俳句と「可布庵」の署名のあることでも、春秋庵の影響下にあったことがわかる。
昭和46年の土地基盤整備により聖天廟境内は縮小され石垣・十数本の桜の大木も撤去された。聖天を奉遷したる跡地、現在の字明神通り「元聖天」と呼ばれているが基盤整備により跡形もない。
《遷座後の聖天堂の隆盛と縁日の賑い》
さて遷座後の聖天堂は、年毎に信徒を増し、家内安全・無病息災・五穀豊穣の祈祷を乞う者、取分け八十八夜前後には養蚕倍盛・悪鼠退散を祈願するもの後を絶たず、遂に信者の求るままに月例護摩・浴油祈祷等、大聖歓喜天の秘法を修し、祈願成就を勤行して信徒に安心を与え、猶檀徒は4月17日の縁日には地芝居など催して賑いを添えた。
《大改築と賑かな正月元旦大祭》
昭和62年拝殿の一部腐朽及び不同沈下により改築が必要とされて檀信徒の結集により大改築が行なわれ、鋼板葺きの新装廟になったのである。また、宮殿修理も同時施行した。この改築により、本殿の棟板(元治2年建立、)、宮殿修理の墨書(天明6年1786)等を発見し確認された。現在は、正月元旦大祭が最も賑やかに催され、月例護摩祈祷も参詣者が多い。